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ミニマリストな夫婦の断捨離 捨てられない心理続編

 

 

ノマドしたい夫婦が最初につまづいたのが断捨離

オーストラリアに語学留学をしたのが14年前。オーストラリアの出会い系サイトを利用してネット婚活の末に出会った夫と国際結婚して10年。二人で夢のマイホームを購入して9年。そんな私達は残りの人生を世界中を移動するノマドな暮らしがしたくなり、愛着いっぱいの家を手放すことにしました。ノマド的な暮らしをするには荷物が多すぎてはいけません。そこで夫と二人で断捨離をすることになったのですが、これが想像以上に疲れる作業なのです。

断捨離はなぜこんなに疲れる作業なのか? 捨てられない心理、手放せない心理についての続編です。

 

価値の過大評価

「逃がした魚は大きい」は、一度は自分の手元にあったものが手元から離れてしまった時の後悔の気持ちを表す言葉です。悔しいというか、残念というか、なんともすっきりしない気持ちです。断捨離をするときにも、これを味わいたくないがために手放せずにいることって多いものです。「もったいない」は、物を大切にする想いがあっての手放せなさですが、「逃がした魚」は、そのものが愛おしいのではなく、もったいないことをした!と後悔するのが嫌な自分がいるということでしょう。

これは物だけではなく、人間関係、特に恋愛関係にも通じます。

例えば親しくしている男友達がいるとします。ボーイフレンドではありません。異性として意識したことが全くないのです。ところがその男友達に彼女ができた途端、急にその男友達がかっこよく見えて恋心が芽生えた、なんてことがあります。これは、男友達の価値にやっと気づいたというよりも、自分のものではなくなった途端に感じる、惜しいことをしたかも!の後悔です。

例えばボーイフレンドがいたとします。大好きというわけではありません。他にいい男性が現れたらそっちに乗り換えたいとさえ思っているほどです。ところがその彼から突然別れ話をされました。他に好きな女性ができたというのです。その途端、急にそのボーイフレンドがどれほど素晴らしい男性だったのかに気づき別れたくなくなった、なんてことがあります。これも、その男性の価値にやっと気づいたのではなく、自分のものではなくなったと知った途端に感じる、本来は私のものだったとに、の後悔です。

私たちは、手に入れたものや所有しているものに対しては、正当な評価ができなくなってしまうという一面があります。大体の場合が過大評価の傾向です。なかなか別れられずにずるずると付き合ってきた彼とやっと別れた後、「なんであんな男と別れられなかったんだろう?」と不思議に思うのも、所有しているものに対しての過大評価傾向があったからでしょう。もしのその彼が友達の彼だったとしたら「さっさと別れたら」って忠告していたかもしれません。それほどに、自分のもの(だと思っているもの)に対しては、冷静な評価ができなくなるものです。

 

贈り主に対する罪悪感

いただいたプレゼントは処分しにくいものです。「処分」という言葉さえ使うのが失礼な気がしてきます。でも、いただいても好みでなかったり、必要でなかったりするものがあるのも事実です。

私は自分の好みがはっきりしていますから、プレゼントをいただいても使ったことがほとんどありません。好みがはっきりしているというのは何が必要か何が必要でないかを知っている、ということでもあります。

私は必要なものは全て持っていますから、頂き物はほとんどの場合、もう既に持っているから使わないか、必要ないものだから使わないか、どちらにしても使わない物になってしまうんです。ですから頂き物のほとんどは手放すことになります。

では、その手放す行為をを何の感情も動かさずに事務的にしているのかというと、そんなことはありません。贈り物というのはその方の心も一緒に戴くことなので、必要ないから処分、必要ないから寄付、なんて簡単に割り切れるものではありません。感謝しながら手放しますが、贈り主の方に申し訳なく思う気持ちは拭えず、やはりエネルギーを使います。そんな理由から、私は贈り物を頂くことがとても苦手です。同様の理由で贈り物をするのも苦手です。

話がちょっとずれましたが、贈り物をいただいても必要ないものだった場合は、私は贈ってくださった方の気持ちを無駄にしたくないので、それを欲しい!と強く思ってくれる人をさがすという時間と労力のかかることをして、罪悪感をちょっとだけ緩めています。

 

思い出が手放せない

物に思い出が乗っかっていると、なかなか手放せないものになってしまいます。すでに物には何の価値がなくなっていたとしても、これはもう物の処分というより、思い出との対峙、決別みたいなことになってきますから、非常にエネルギーを使います。

私は14年前に日本を発つとき40冊以上はあっただろう日記を処分しました。拒食症のときから綴り始めた私の歴史書みたいなもので、日々の出来事も、私のその時々の感情も、そのとき思わず発した言葉も、全てがそこに書き記されています。私にとってはどの書物よりも貴重なものだったのですが、それを全部焼いたのです。

ところが、どの書物よりも貴重だと思っていた日記を、私は過去14年間に思い出したことがありません。保存しておけばよかったと思ったことがありません。読み返してみたいと思ったこともないのです。思い出というのは、案外そんなものなのかもしれません。

自分が思っているほどには、思い出の存在は大きくないのかもしれませんし、それほど重要でもないのかもしれません。もしかしたら、「思い出は大切だ」と思っている自分がいるだけなのかも、です。

 

親からのしつけ

私はおじいちゃんおばあちゃんもいる田舎の大家族で育ちましたから、物心ついた頃から「ものを粗末にしてはいけない」と教えられて育ちました。ご飯一粒でも残すと怒られたほどです。農家の人がどれほどの苦労をしてお米を育てたのかを考えなさい、ということです。

しかし、この「ものを粗末にしてはいけない」躾のおかげで、物を粗末にすることと物を処分すことの区別がつかなくなってしまったことも事実です。

お弁当を買ったらついてきた割り箸未使用品、お弁当の中に入っていた魚の形をしたお醤油、頂き物のクッキーのお洒落な缶、包装に使われていた光沢のある美しいリボン、ジャムの入っていた可愛い瓶などなど。わざわざ買ったものではないけれど、捨てるのはもったいない。気がつくと、そんなものたちが台所の引き出しや棚を占領しているってことが何度もありました。

使えるのに捨てるなんてもったいない、と思ってしまうのです。でも、それは物がなかった時代の物との付き合い方で、使わないものを保管するスペース代の方が高くつくという今の時代にはそぐわなくなってきているように思います。だからこそ、物を買うときは厳選し、厳選したものを長く使うというスタイルがいいように思うんです。物と真剣に向き合って相思相愛で選び選ばれる、そんな関係がいいように思います。物を粗末にしない最初のステップは、厳選すること、ですね。

 

小さくて邪魔にならないもの

小さくて邪魔にならないものは曲者です。場所をとらないので、「ま、これくらいいいか」と自分に甘くなってしまいがち。ジュエリー類がいい例です。高価だったということもあり、それだけでも手放しにくいものなのに、サイズが小さくて場所をとらないとなると、これくらいならいいか、の類に入ってしまうのです。そうやって手放せずにいる宝石類が、あなたの引き出しにもありませんか?

私は今回もこのジュエリー部門でまたまた手放すチャンスを逃してしまいました。高価だった、贈り物だった、思い出がある、邪魔にならない、この4つが重なって、おそらくもう2度と身につけることはないであろうと確信していながら、手放せずに手元に残っています。

ただし、何でもかんでも、使わないから不要、とは思ってはいません。例えば、手にとって眺めただけで思い出が蘇り、涙ぐんだり微笑んだりする。瞬時に感情を揺さぶってくれるものだとしたら、あなたの人生に深く関わったことがあることの証拠です。それほどあなたの人生に深く関わったものを、使わないから、の理由だけで処分するのは寂しいし貧しい気がします。

小さくて邪魔にならないものは手放すきっかけを逃しやすいものですが、それがあなたの人生に深く関わっているものであるならば、それを保管するスペースくらいはあなたの引き出しに確保しておいてもいいのではないかと思います。これは、無駄と呼ばず、豊かさと呼びたいですね。